6・25韓国動乱(朝鮮戦争)の時,上院寺(サンウォンサ)にはどんなことがあったか
1950年6・25韓国動乱(朝鮮戦争)は民族の悲劇だった。 その戦争で民族の分断はより一層固定化されたし,南北間の理念対決が深刻に展開した。 そして全国の文化財も推し量ることができない程消失した。 戦争が真っ最中だった1950年12月,北進をした国軍と国連軍は中国共産軍の参戦で涙ぐんで後退をした。 ついに国軍は38度線上でも中国共産軍の総攻勢に押されてまた南に後退をしたし,住民たちもまた疎開してこそなった。 これがいわゆる1・4後退だ。
“もう火を付けなさい。”
“僧侶,そうすればどうなりますか?”
“私の心配はやめてはやく火を付けなさい。”
“僧侶! こうしてはいけません。 出てきて下さい!”
“君たちは軍人として上部の命令によって火をつけることであるから火をつければ良いのである。私は仏様弟子として当然寺を守らなければならない。 お前らは上部の命令に従えば良くて,私は仏様の命令について寺を守れば良いのでないか? 本来死ねば当然のごとく火に焼かれるものだ。 また、私は年も取っていて死ぬ日も遠くなかったのでうまくいくことではないのか。 だから心配せずに火を付けろ。”
節義焼却を伝え聞いたある僧侶は将校にしばらく待てという言葉をいって部屋に入り、歌詞長衫を(受ける)着て,法堂の中央にあぐらをした。 そして将校にもうできたので火をつけろといったのだ。
このように老僧と将校は上院寺(サンウォンサ)焼却を置いて目に血走った対決をした。 将校のそばで“もう引き出しましょうか?”と話をした。 当時この場面を見守ったある僧侶の大佐と菩薩はどうすればよいかわからず右往左往して将校に頼むから生かしてくれと泣いてお願いした。 暫くして,何かを熱中して考えた将校は“イ僧侶は普通僧侶でない。 トイン僧侶が明らかにした。”と話をして部下兵士たちに上院寺(サンウォンサ)法堂の外に出て行くことを指示した。
そして将校は寺を焼いたという証明をするために,節義扉を焼いて演技でもしなければならないという了解を老僧に得た。 将校は部下兵士たちに上院寺(サンウォンサ)の扉数 十ヶ余りを引き離して広場に置いて火を付けるように命じた。 扉を乗せた黒い煙は上院寺(サンウォンサ)空で高く上がった。 それで遠くから見れば上院寺(サンウォンサ)に火事が起こったように見えた。 扉をみな焼いた将校は火をつけたという証拠で老僧が漆あるゴマ陣竹扉一つを持って上院寺(サンウォンサ)を降りて行った。 ある僧侶の生死火移籍の生死観で起因した節義守護精神で上院寺(サンウォンサ)は奇跡的に焼却を免じたのだ。 当時ある僧侶の話を聞いて焼却中止命令を下したその中尉の身上は伝えないでいる。